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簡単プロフィール

普段はサラリーマンとパートで働いているアラフォー夫婦です。
ちょっとしたご縁でブログを始めました。

旅行ブロガーを目指してまして、旅行先の魅力や良いところ、注意すべきところをできるだけ伝えたいです。

あとは、ブログもエンタメとしての要素が必要と感じてまして、カタログ的な記事にならないよう、個人的な経験値を盛り込んだり、動画を少しづつ入れるようにしてます。
顔出しYouTuberになる予定は全くありませんが、ブログに関連した動画は今後も積極的に入れたいなと思っています。

プーケット旅行記のサーフィン動画:

プーケットのカタビーチでフローライダーを体験!気軽にサーフィン体験できます
プーケットのカタビーチでフローライダーを体験!ジェット水流で作られた人工の波で、気軽にサーフィン体験できます!短い動画も揃えましたので、すってんころりんをご覧ください!
旅行に行ったら、

  • ホテルor旅館のいいところ
  • おいしい食事
  • 現地のアクティビティやエンタメ
  • 等を記事にして、ストーリー性のあるブログにしたいですね。

    あとはバイクも乗っています。
    愛車はハーレーダビッドソン、xl1200cxロードスター。

    どうぞよろしくお願いします!

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    思い出話(長いです)

    ほぼ日記に近いです、適宜お楽しみください。

    小学校~中学

    小学校入学

    自分の出身は北海道の片田舎。
    学費もかからない、公立。

    小学校に入るタイミングだった思う、地域の交通の担い手だった国鉄が、民営化のあおりで廃線となった。
    家の周囲は田んぼと畑。隣の家まではうちの土地だった。
    幼稚園ではなく、季節保育所。
    冬の間は休業という都会では考えられない仕様の保育所。

    保育所から小学校に上がる際、

    “冬も毎日のようにどこかへ行くなんて、自分にもできるだろうか”

    と、クソガキながらに心配した。

    小学校は、開校して数十年の歴史はあったようだ。
    多くても100人程度の小さな学校で、自分が入学したときは全校生徒で30人程度だったように記憶している。

    しかも、自分には姉がいた。二人。
    なので、学校の中での扱いは格段に変わる。
    姉がいるということで、校内の見方も変わるのだ。

    先輩方は、だれだれの弟、ということでそれなりの色眼鏡で見てくれた。

    しかし、その取扱いは長く続かなかった。
    姉の卒業ともに、校内の目はなにやらキツくなり、全校で30人もいないような小さい学校だったが、公然とイジメが行われていた。

    自分はイジメる側にも、イジメられる側にも両方いた。

    イジメられる側にいると、それはそれは壮絶な思いをすることになる。
    なんせ、高学年が仕切る学校においては、自分は村八分だからだ。
    だれも味方はいない。
    担任も他の先生もうすうすそれを感じているため、事を荒立てないようにうまくやり過ごす。

    なんかの拍子でサッカーをやるとする。
    弱いチームは徹底的に高学年から攻撃される。

    ※小さい学校なので、3年生以上は学年に関係なくごたまぜで昼休みはサッカーをしていた。

    まあちょっと突き飛ばしたり、蹴りがはいるくらいは日常だったので、特に気にしていなかった。
    それでも高学年は、絶対の立場だった。

    ヒエラルキー

    今振り返ると、とてもよくできたヒエラルキーだったように思う。
    1,2年生のうちは、校舎が2階建てにもかかわらず、2階に上がることが許されなかった。
    理科室や音楽室が2階にあったので、授業の名目で2階に上がれるのは素直に嬉しかったものだ。
    そして3年生になった瞬間、上に上がることが許される。
    そして、3年生から6年生まで、なぜか同期の桜的な連帯感が生まれる。
    しかしそこには純然たる順序があり、先輩は神様だった。

    数年に一人くらい、その学年ヒエラルキーを飛び越して学校を支配するような猛者が出る。
    ちょうど、自分の2個上の先輩がそうだった。
    3個上の先輩は男が一人しかいなく、男子ヒエラルキーが変化していた。

    ※その先輩は、その後、中学校でもいわゆる”番各”だった。

    ヒエラルキーが歪んでいるときの下っ端が一番つらかったように記憶している。
    番が5年、自分は3年、それでいて6年の誰それがターゲットになったりすると、これまた公然とイジメが勃発する。
    6年生は、多勢に無勢、孤立してしまう。

    しかも、イジメる理由が、

    “アイツの親、ムカつくよな”

    というものだった。本人は嫌われてなくとも、親の振舞やら発言で上げ足を取られ、イジメの対象となるってどんだけ理不尽やねん!
    なんともすごい戦国時代江を生き延びてきたものだと、自分でも感心してしまうほど、田舎の小さな学校でのイジメは壮絶だった。

    6年間、ターゲットになってもなんとなく親にも言えず、言ったところで村八分を嫌がる親が直接的に動くことはなかった。直感的に、何言っても何も変わらないだろうし、やり過ごそうっと思っていたら、いつの間にかターゲットから外れていたり。

    5年生以降は、特に大したこともなく、割と平穏な日々だった。

    途中、スーパーマリオにはまったりして、放課後に遊びもせず一人でゲームに夢中になっていた。

    卒業式には見事に着られている学ランを纏い、無事に卒業した。

    中学からの日々はまた小学校とは趣の異なるものだった。

    中学へ

    中学校は昔、小学校と併設されていたらしいが、過疎化が進み、市街地の中学校に統合され、家からはバス通学だった。

    自分には姉がいたので、その通学の様子は小学校のころから目の当たりにしていた。
    毎日、ほぼ定時に我が家の前に留まるスクールバス、それに向かって走るように家を出る姉、急かす母親。

    姉は吹奏楽部。
    土曜の午後(当時は土曜の午前も授業があった)も、日曜日も部活。
    発表会が近いと夜まで部活ということで弁当を二つ持って通学する姉を間近で見ていたので、なんとなく中学生の大変さは把握していた。

    部活

    とりあえず楽器興味ないし、吹奏楽部はないなと。

    中学は、事実上の帰宅部禁止。

    自分は小学校のころから漫画でスラムダンクを読みふけり、テレビでNBAを観戦するいっぱしのバスケ男子でした。
    小学校のころからレイアップシュートくらいは普通にできた。
    なので、男子バスケ部へ入部。

    通称、“男バス(だんばす)”

    ソコには、小学校時代にお世話になった、あの”番各”先輩がいた。
    副キャプテン、校内でも番各、そりゃあカッコよく写りましたよ。
    実際、バスケ部は弱小だったんですが、その先輩の代はソコソコ強く、そして怖い世代だった。

    ある日、クラスメイトが3年生に呼ばれ、数分後、泣きながら帰ってきた。
    前々から目をつけられていたと言う噂のあるやつ
    だったが、ついに来たかと。

    なんでも、3年生の番各グループ()の妹さんが1年生にいて、そいつとイチャこらしたらしく、兄貴としては黙ってられんと、、
    まあ今となっては笑って思い出になるかもしれないけど、当時1年生になって片田舎から市街に出てきた自分としては、それはもう日々怯えて暮らす感じだった。

    詳しくは覚えてないが、何回か3年生に絡まれた事はあった。
    先輩と知り合いと言うことは暗に知られていたので、暴行受けることはなく、無事に3年生の卒業を迎えた。

    問題世代の卒業後

    相当、校内の空気が平和になった事を感じた。

    入学する前から、なんだか大変なタイミングで入学してしまうらしい事は聞いていたが、なんとか1年間無事に過ごせたのだ。

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    けっこうショックだった北海道南西沖地震

    1993(H5)年7月12日、
    忘れもしない日。

    思い出すままに、
    書いてみようと思います。

    その日、中学1年の自分は、
    期末テストが終わって、
    ほっとしていた。

    夜更かしが得意でなかったので、
    21時過ぎたらすぐに寝ていた気がする。
    父親は飲みに出ていたようで、
    まだ帰宅していなかった。

    そんな夜だった。
    父親が酔っ払って帰宅し、
    茶の間でうたた寝している。
    母親は先に寝ていたような気がする。

    夜。

    地鳴りのようなものが聞こえ、
    揺れてきた。
    柱がきしんでいる。
    床は大きく揺れ、
    1階の戸棚はガチャガチャ音を立てている。

    水槽は大丈夫か?
    下に降りたが、
    幸い、無事だった。
    ちょっと水がこぼれていたが、
    我が家は基本的に無害の様だ。

    皿が1枚だけ、
    下に落下して割れたくらい。

    夜なので、外に出ても、しょうがない。
    余震はおさまってきた。

    こんなときに、来訪者。

    「電話かしてけねぇかぁ??!」

    近くの方が、わざわざ車で訪ねてきた。
    うちも、電話は通じなかった。

    この頃はスマホはおろか、
    携帯電話もない時代。

    メールがつながらない、
    とかでなく、
    家の電話が通じなかった。

    思えば田舎なりに、
    静かにみんな、
    パニックになっていた。

    一晩あけて、
    登校した。

    あんな状況でも登校したのだから、
    今ではちょっと考えにくい。

    学校ではお互いの安否を気遣うというよりも、
    なにかいつも通りにしようといった空気だった。

    部活も普通にあった気がする。

    帰宅して、
    今回の地震の規模と被害に驚いた。
    田んぼは地割れを起こして水が全て流れ落ち、
    河を守るはずの堤防が瓦解したという。

    至る所で液状化現象が起き、
    畑は壊滅という農家さんが多数いた。

    海を隔てた奥尻島には津波が押し寄せ、
    亡くなった人もいたと。

    地域の中では、
    ダメージがあったところもあったらしい。
    煙突が折れた家、
    揺れがひどくて皿が全部落ちた家、
    農作物がほとんどダメになった家。

    幸い、我が家は無事だった。
    畑も、家も。
    もちろん、家族も。

    その後、
    少しずつ復興が進み、
    今ではその片鱗もない気がする。
    そのことを知らない人も多くなってきた。

    実家に帰る度によみがえる記憶。

    中学生活2年生に入る頃、成績は上位に食い込んでいた。
    周りが下がってくれたので、相対的に上がっただけなのだが、その後、追随されることなく卒業まで突っ走る事に。

    部活では副キャプテンとなり、何やら恋愛ごっこも経験して、割と幸せだったように思う。
    姉は近くの都市部に進学して、たまに親と共に遊びに行っていたが、やはり自分も田舎を出ることになるんだろうなぁとぼんやり考え始めていた。

    当時、学年に百人もいなかったが、順位は上から数番位で安定していた。もう少しなんとかならんかなぁと思っていたら、3年生に上がる頃に転機が訪れる。

    中学校からはほとんどの人が地元の高校に進学していた。
    普通科のある町内の高校、ソコに併設された農業科(後にコース廃止)、隣町の商業高校(後に廃校)。

    たまたま姉が都市部に進学したことや、父親が寮生活を経験したこともあって、高校からは実家を出て都市部に進学するもんだと思っていた。
    自分は地元にそこまで愛着はなく、友人もほとんどいないに等しい寂しいヤツだったように思う。

    そんな中、父親が姉のためという訳ではないが、マンションを購入した。姉はソコに引越し、自分もそのうちソコに住んで通学できれば良いのかなぁーみたいな緩い話をしていた。

    そのマンションのすぐそばに、市内一番の公立進学校があった。

    父親が何気なく、

    あの高校に通えれたら良いねぇ

    と呟いた。

    それで、自分の闘争心に火がついたらしい。
    3年生に上がり、意識して勉強し、進学を意識し始めた。

    学年順位は3番手に付けていた。
    どうしても超えられない二人の壁が厚かった。
    こいつらに勝つにはどうしたらよいか?当時は塾にも行かず、学校で配布される問題集を繰り返し解いていた。
    夏にはバスケ部を引退し、その試合のすぐ後に期末試験があった。

    何が良かったのか、学年トップを取ることができた。
    五科目で480点だったように記憶している。
    当時、父親はここまで点数上がるとは予想してなかったらしく、450点を超えたら、1点あたり1,000円くれると約束していた。過去最高の三万円を試験で稼いだわけだ。

    夏休みには、親の協力もあり、市街地で夏期講習を受けた。それはとても刺激になるもので、如何に自分が井の中の蛙だったのか、思い知らされることに。

    学習進度がちがう、深度がより深い、先取り学習も平然と行われ、特にダメ元で選んだ私立進学超特設コース(笑)のレベルがまったく歯が立たないものだった。

    もともと、マンション近くの公立進学校へ行くつもりだったが、進学希望は2段階ほど上の私立高校へ舵を切った。

    それからは、日々の生活が一変した。
    塾で勧められた問題集や、知り合った友人の勧めで過去問の解説を買い、何度も反復して勉強した。
    学校の進度に合わせていると間に合わないことは明白で、3年生の夏以降、ほぼすべての事は自分の独学でカバーしたように記憶している。
    学校の授業は、一休みする時間、休み時間には空き教室に一人赴き、ソコでガリガリと勉強した。

    熱中し過ぎて教室に戻るのも忘れて、先生に何度か呼ばれたことはある。もう、教師たちもある程度わかっていたので、半ば公然と内職していた。
    そして、科目ごとに難しい問題については先生にたずねて1つ1つ解決した(多分、、)

    英語は、英検2級を受験と並行して受けた。

    なんと、、こっちは落ちてしまった、、、

    口頭試問で明らかな間違えをしたらしく、それでオダブツ。無念である。

    そうこうしていると、冬休み。 
    受験先は決まっていて、たまにある模擬試験でも上位に食い込める事が何回か出てきた。孤独な闘いだったので、順位や点数は純粋に勇気づけられるものだった。

    冬にも講習を受けた。
    正月返上で塾に通い、日々の力を付けていた。
    有名な上位者と同等の点数を取れたり(科目だけだが笑)、着実に得点力が増していくのを感じた。

    冬休み明けの三学期は、土曜の途中から学校を抜けて塾に行くことが特例で認められた。実は自分より先にコレをやっている人がいたので、母親の協力もあって、毎週片道2時間以上かけての通塾が始まった。

    それに、雪国特有のスキー授業があったが、全て欠席した。
    右手を守るため、受験勉強に充てるため。

    試験前、学校を休み、姉のいるマンションにお世話になった。
    試験当日は、タクシーで1人会場入り。
    帰りは迎えに来てもらった。

    カトリック系の男子校だった、校長はフランス人(確か)試験開始前には校長の挨拶が流れ、試験開始。

    詳細は覚えてないが、それなりの手応えはあったように思う。

    塾で仲良くなった他校の友人マサ君と感想を話した。彼は本当に不安そうだったが、自分は割と平静だった。
    彼がおちたら、まあ俺もだめだよなぁ、なんでこんなに不安そうにしてるんかな?
    と。

    試験数日後、発表。

    無事に合格。
    同時に受けた同じ学校のクラスメイトも合格。
    マサ君も合格。

    晴れて、春から第一志望の男子校で、ムサイ高校時代を送る事になる。

    高校

    高校は北海道の片隅、地方都市。
    寮のある男子校。

    寮にはほとんどプライバシーはなく、自習室と寝室、洗面所、風呂くらいか。
    あと食堂。

    メシがひたすら不味かった。
    社名は伏せるが、何故に飲食事業やっているのか、本当に不可思議な不味さだった。

    納豆の日は楽しみだった。
    納豆がごちそうに感じるくらい、他のメニューはイマイチで、週末のカレーもなんだか(笑)

    まあお陰で好き嫌いがなくなり、生命力はとてもついた気がする。
    そして、大学に行ったら独り暮らしをして思う存分料理してみようと思っていた。

    学校の授業は、進学校ということて桁違いの量と質だった。
    最初の試験でドロップアウトが3割、夏休み明けには半分位がもう希望も何もないタダの高校生になってしまう。
    あの難解な試験をくぐり抜けた猛者どもが半年で腑抜けになるなんて、、、

    自分は何故か数学が得意科目になっていた。

    1年生1学期、数学だけはほぼ満点に近く、日本史が壊滅状態だったのは、文系法学部志望の自分にはとても辛い現実だった。
    一方、数学はとても大きな武器になることを知る。
    このあたりから、徐々に理系志望へシフトして行った。

    男子校で寮にいたが、それなりに遊べた方だと思う。
    世間の共学とは比べ物にならないが、一通りの経験したし、異性に溺れたらロクなことがないと思い、彼女は作らなかった(相手もいなかったw)

    寮はアルバイト禁止、免許取るのも禁止、寮から地元に規帰省した際に地元の悪友にいろいろと感化されて高校3年生から遊び始めるヤツ、ある日突然金髪になるやつ、彼女作りまくるやつ、相変わらず成績いいやつ、卒なく遊ぶやつ、カラーがとても個性的だった。

    中には、高3の夏に映画を作ったやつまでいた。しかもソイツは寮生。
    お前は一体何を(笑)

    ともかく、地味な男子校も3年生になればもう受験モードのはずが、どこかしら白けたような、先送りにしたいような、ムズムズするように夏を過ごした。

    高校受験と違って、ライバルの幅が全く違うのが大学受験。夏休みには、駿台予備校のセミナー形式の合宿に参加した。
    北海道ではそれなりに名が通ってる進学校でも、全国レベルでは普通だった。そりゃそうだ、上には上がいくらでもいる。

    “東大生医学部か慶應医学部志望です”

    みたいな奴らと1週間ほど生活を共にした。

    しかしどこでもワルくなりたいのか遊びたいのか、ルールを破るやつは出てくるもんだ。

    ソイツはYスケ。
    九州の進学校らしい。合宿だったか、当然男女別の建物に隔離されている。
    まあここまでかけばもうオチはわかってると思うので省略。バレちゃいました。

    Yスケとは夏休み明けもたまに連絡を取り、文系志望と理系志望の差こそあれ、同じ受験生として情報交換していた。

    モテない男子校、3年生の秋頃にはやっと受験モードになっていた。
    徐々に志望校について現実を見始め、医者志望の人は全国津々浦々の医学部と自分の偏差値を対比していた。

    また、ひと足先に合格を決めるやつらが出てくるのもこの頃だ。

    “指定校推薦”

    である。これ目当てにウチに進学してくる人はとても多いし、まっとうな手段だ。
    親しい友人二人が、早慶の推薦をもぎ取ったと聞いて、素直に嬉しかった。俺は国立理系、あいつらは文系、そもそもフィールドが違う。

    負け惜しみでもなく、本当にそうだった。彼らに数学教えたりしていたこともあり、3年間の集大成として素直に嬉しかったものだ。

    そういえば、中学の友人はどうなったか?
    クラスメイトは無難に北大(北海道大学)志望、もう一人、塾で知り合ったマサ君は、、

    彼こそは入学当時、学年一桁近くにいたくらいのかなり優秀なヤツだった。

    ソイツは寮に入ることを極端に拒み、下宿生活だった。その下宿は、隣にある、モテ男子校の巣窟だった。
    そこで、彼は、デビューしてしまった。

    背が高く、柔らか目の顔、身体もガッチリ、同じ男から見ても十分カッコよく、本当にモテた(らしい)。

    おそらく、そこで15年間の努力を精算してしまったのだろう、進学先は札幌にあるFランク大学ということだ。

    その頃には、もう疎遠になっていたし、まあ、そんなもんだろうと感じた。

    皆、違う大学に行くのだ。

    一緒に目指すことは、敵になるということだ。

    進学希望先をひた隠すヤツは多かった気がする。
    進学校とはいえ、半分は浪人するのが通例と聞いていた。まさに皆様、プライドという受験に最も不要なものを持ち合わせている感じがした。

    さて、自分はどうしたか?

    ・首都圏
    ・国公立
    ・理系、数学科、その周辺学部

    という条件で探した。

    数学がそこそこできたので、担任からも周りからも、それこそ両親からも、医学部に行かないのか??とよく聞かれた。
    どうしても、医者の仕事に魅力を感じなかったし、わざわざレベル上げてまで受験に没頭できなかった。

    当時はゲーセンで音ゲーが流行りだした頃で、Beatmaniaには幾ら使ったか全くわからない。ハマり込んでいたため、成績は振るわず、志望校の変更も視野に入れていた。

    極めつけは、センター試験だった。

    数学で満点とるぞー!

    という目標があったが、敢え無く撃沈。
    他の科目もイマイチ、英語に至っては試験終了間際に鉛筆を撒き散らすという惨事に見舞われた(手が滑ったのです)

    で、志望校だ。

    下げました。

    偏差値の差は10以上あったような気がする。

    模擬試験の時に一度も書いたことがないが、数学科に関してはソコソコの知名度らしい。
    しかも社会は不要(センター大失敗)、数学の配点がデカイ。

    これだ。見つけた。

    まあ実は父親と電話して、元々の大学なんて無理なんじゃないのと言われたのもデカイ。余計なお世話をありがとう、オヤジ。

    で、あれよあれよいう間に卒業式。
    受験に配慮して、卒業式は早い。

    普段つけないサージカルステンレスの輪っかを両耳にぶら下げて式に臨んだ。担任からははたかれたけど、気にしない。

    で、受験。

    受けたのは2回だけ。
    第一志望の国公立と、滑り止めの私立。

    私立は難なくクリアした。
    試験会場の雰囲気が、なんというか、異常だった。
    休憩時間には、喫煙者が一服してるし、ガラの悪そうな奴らが。

    こいつらできるんかなー?

    っと思って試験開始。
    周囲はとても静かだった。自分は試験開始前から透かし読みで1問解いていたのですかさず記入。

    周りは本当に白紙ばかりだった。
    倍率は確か3-4倍、四方を見回しても自分の1/3も解答欄が埋まってない。

    その日、自分の合格を確信した。

    1校目の私立は合格を確信したが、残るは第一志望の国公立だ。
    気を引き締めなければならないところだが、どうにもこうにもやる気が出ない。

    当時は、都内にある祖父母の家にお邪魔して受験生をやっていた。

    私立受験で燃え尽きてしまったのか。1校しか受けてないのに、、、

    全く、受験をなめてかかっちゃいかんと思いつつ、やはりやる気が出ない。
    私立受験のあと、何時間、勉強したろうか??
    数週間程度間は空いていたような気がするが、累計しても数時間程度しか受験対策していないような気がする。

    あきらめていたわけではないが、そもそも、志望校欄に書いたこともなく、赤本は買ったけれど、問題傾向もよく知らないままだった。赤本をパラパラと眺めるが、頭に入ってこない。

    そんな体たらくで試験本番を迎えた。

    数学・物理・化学・英語の4科目だったような気がする。

    もう問題は全く覚えてないが、まあまあ、そこそこにできたような、、、

    無事に?すべての試験が終了した。
    2校しか受けなかったが、とても重労働だったように感じた。

    ぼけーっと過ごしていた。

    合格発表

    やっと、私立大の合格発表日だ。

    自信はあったが、いまいちなぜか悶々としながら見に行った。

    自分の番号があった。

    とりあえず、浪人は回避だ。とても、さわやかな気分だ。

    親にも連絡、親しい友人にも連絡した。
    周囲でも同じ大学の、他の学部を受験した人は多数いたようだ。

    ともあれ、春から大学生だ。

    その後、第一志望の国公立大の発表日。
    なぜか、田舎から父もやってきて、祖父と親子3代で発表にいった。

    正直なところ、よくわからなかった。書くだけ書いて、悪あがきはしたので、滑り込みセーフであれば、、、
    と淡い期待を持ちながら親子3代で受験番号を探す

    ”あった!”

    見つけたのは自分でなく、祖父だった。
    自分も確認すると、確かにそこに、自分の受験番号があった。

    おしゃ!

    第一志望に滑り込んだ!

    春から大学生!

    おかんに電話して、吉報を伝えた。母校にも。

    その足で、帰りに道に不動産屋に行った。引っ越すことが決まっていたので、部屋探しである。
    不動産屋もよくわかっていて、待ち構えていた。
    ロフトのある、ちょっと大学から離れているけど広目の部屋だった。

    内見もせず、即決。

    振り返ると、ちょい高くて、けっこう不便な立地だったが、、、

    帰宅して祝杯を挙げ(飲めなかったのでコーラで)、一人くらしに思いをはせた。
    寮生活時代に待ち焦がれた一人暮しがすぐそこに!

    大学(院)

    晴れて第一志望に受かり、3月から一人暮しを開始した。

    1人暮しになったら料理を… 
    とか思っていたが、実際はそこまできちんとしていなく、炊飯器でごはんを炊き、適当におかずを買ってきたり、麺類で軽く済ませることが多かった。
    そして、部屋は散らかっていた。

    これじゃまずいと思い、インテリアに凝り始めた。
    凝るといっても、あるものでいかにかっこよく見せるかという簡単なもので、始めからテレビがない生活(高校の寮生活でなれっこだった)から、雰囲気出せればよいだろうと。

    インテリア

    まず蛍光灯をやめ、大きめの電球に。
    シェードも少し古臭いものを。
    実家の納屋から引っ張り出してきた桐の箪笥はいい感じに味か出てるので、オリエンタル?アジアン?な感じでいこうと。
    時計は手巻きの骨董品のようなもの。
    ほぼオブジェになっていたが、フェイスを開けて中のムーブメントを見せるとなかなか良いものになった。
    幸い、カーペットもよくわからん華のような模様だった。
    そして学生には珍しいという椅子生活。
    この椅子も実家から拝借。
    テーブルはちゃぶ台の脚を撤去して祖父が使っていたという本箱の上にon。

    完成である。

    確かに大体の人はこたつ置いたりして床生活だった。
    それはそれでとても魅力だった。

    冷蔵庫にはラベルを張り、ゴミ捨て場から拾ってきた板と椅子で即席のカウンターを室内にあつらえ、さながら隠れ家のような家に仕上がっていた。
    カウンターの周りには、グラスが合わせて数10近くあっただろうか。

    よなよな、友人たちとたわいもない話をした。

    ロフトがあったので、寝るときはロフトによじ登る。下で寝ることもあったが、冬はロフトが役に立った。

    4月から講義が始まり、夢に見たキャンパスライフ(笑)が始まった。
    どんなエキサイティングな毎日なんだろうと期待していたが、実際は大したことはなく、毎日が講義とその予習復習を割と真面目にこなすという日々。

    ん、つまらん。

    サークル

    そう感じていた中、サークルにハマった。

    よくあるのはテニスサークルとか、ある程度ハコの大きいところなんだろう。
    自分が選んだのは先輩2人しかいないというサークルだった。
    最初、客として行き、その後、声をかけられ、メンバーに。

    学科の勉強よりも、飲食の勉強に没頭した。
    なんとか単位はそつなく取ったものの、のめりこみ具合は全く違った。

    夏が過ぎ、図書館で涼んでいたら(家は暑いから)、サークルの先輩経由で、店で働けることになりそうとのこと。
    そこからまたちょっと忙しい日々になった。

    週に4日ほど、シフトに入り朝まで立ち仕事。店と言っても自分はホールで注文とり、バッシング(皿とかグラス下げること)、お会計など、まあ雑用係だった。
    慣れてきたら、常連さんがお客のとき限定でカウンターの中に入り、簡単なものからいろいろやらせてもらった。

    割と充実した日々だったが、その皺寄せは当然大学に来た。出席率が低くなり、内容についていけない。コレはアカンと直感的に感じ、半年程度で呆気なくその店を辞めた。
    バックレるのは迷惑なので、かと言って面と向かって伝えるのも言い辛い、よし、電話にしよう。

    紹介してくれた先輩にはあーだこーだ言われたが、たかがバイト、繁忙期の年末まではシフトに入る約束で辞める事に決定。

    人生初の給料をもらったアルバイトは半年で幕を閉じた。

    *

    barのアルバイトを辞めたあとは、特段何もない生活に戻った。

    周囲の友人たちは麻雀に明け暮れていた。
    麻雀には興味無かったが、そんなに嵌まり込むなら魅力があるのだろうと、ゲームのルールを教わりながら、卓を眺める事にした。
    幸い、ハマる事は無かったが麻雀の奥深さを知った。

    何度か、高校時代の友人と集まり、徹マンも経験した。
    早稲田にある麻雀早稲田(じゃんわせ)のカレーがとても旨かった。

    麻雀ばかりしていてもしょうがなく、当時は教員免許取得という目的で大学に行っていた。
    単位は取っているが、それもイマイチだった。
    本業の授業がどんどんと難解になり、ドロップアウト同然の人が半数位だろうか。

    自分は修士課程まで進学するつもりだった。
    なんとなくだが、学歴のインフレは感じていたのと、理系は修士課程出てナンボ、的なことは聞いたことがあったような。

    なので、それなりに勉強することにした。
    単位の先取りは容認されていたので、先輩方に混ざって独学で勉強しつつ、単位をかき集めておいた。

    2年生が終わる頃には、取得単位は三桁に達していた。3年生は週に2日位通学すれば良さそうだ。

    ソレを見越した訳ではないが、春休みに免許取得した。
    オートマ限定、山形に合宿。
    元々、車の運転そのものには興味なかったのでオートマ限定にしたのは正解だと思っている。

    合宿は、周りは友人数人で来ている人がほとんどだったが、自分は独りで参加。
    何故か慶應のイケメン達に慕われ、毎日一緒にビール飲んだりした。(本当にイケメンだった)

    ついでに出会いも。
    大学入ってからは、彼女らしい人はほとんどいなかったが、合宿で知り合った人とは2年近くお付き合いした。

    その後、祖父が住んでいた部屋に引っ越す事に。

    祖父は自宅にて亡くなった。
    実はお祖父ちゃん子だったので、とても辛い事だったが、いろいろとタイミングだったのだろう、免許取得してスーパーカブを買い、通学は便利になったのだ。

    お勉強しつつ、カブのカスタムに目覚め、ボアアップして、中型バイク免許も取り、マフラーを替え、シートを替え、二人乗りできるようにした。

    写真無いのが残念だが、ちょっとしたカフェレーサー風??の小洒落たカブに仕上がり、バイク好きの後輩くんからもなかなか好評だった(気がする)

    大学4年になると、卒業研究としてゼミに所属した。
    体育会系?のゼミで、スポーツ枠(笑)とお勉強枠のどちらかでなければ入れないというゼミだった。
    ボスはテニス上手くて、単位取得の救済措置としてテニス試合をよくやっていた。レポートの連名も認めていた。おおらかだった時代だ。今はどーなんでしょう?

    幸い、お勉強枠で滑り込む事ができた。

    今振り返ってもこのゼミに入れたのはとても大きかった。
    勉学だけでなく、筋トレしたり、テニス習ったり、世渡りというか世間を見せてくれた(周りのゼミに比べれば笑)

    進学を見据えたゼミ中心の日々が始まる。

    *
    ゼミに入ってからは指定textの輪読を行い、特に就職する人達中心にゼミは進められた。
    と言うか、進学するのは自分だけで、他の人は就職組だった。
    既に就活を進めている人も多数いて、ゼミはそれなりに、っていう感じ。
    ボスもそれはよくわかっていて、黙認していた。

    自分は院試対策と復習を兼ねて、既に単位を取った授業に参加したり今後の教養と、文系就職を予定していたのでマクロ経済や統計学、ゲーム理論の基礎などを受講した。大学院と学部の共通講義にも出た。
    取得見込み単位は200を越え、統計学の試験はただ独り満点を取れた。素直に嬉しいものだ。

    進学先は、学部と同じ国公立に半ばエスカレーターで行けたが、外部の空気を吸いたいのとあわよくばレベルアップを目指し、東大か東京工業大学を目指した。

    実は、ほんの一時期、学者を志した事がある。
    しかし、いろいろと現実を見るにつけ、茨の道であることや、純粋に実力が足りてなかった。

    なので、数理系の素養を活かして金融機関への就職を意識していた。
    これは、ボスに教えてもらったアクチュアリーとクオンツの話がデカイ。
    このときは、とりあえず院に行くことだけ考えて、就活に疲弊している周囲とはあえて距離をとった。

    就活していないのだから、わかるわけないのだが、なんとなく内定を求めて疲弊する彼らを見下していたような記憶がある。
    (このしっぺ返しは、1年後に訪れる)

    同学年に進学希望の人は他にもいたので、彼らと自主的に勉強会という名の過去問研究を進めた。

    大学院入試の問題は、一般に公開されている。
    ただし、解答は、無い。自力で解くしかないのだ。
    自校の問題なら、最終手段として、教授に聞ける。
    誰が作ったかも多分わかる(はず)。

    ちなみに後から知ったのだが、院試の結果で奨学金の利子がゼロになるという(いわゆる第一種奨学金)。
    それは知らずにとりあえず受験に没頭した。

    アルバイトは家庭教師を少し、彼女とも滅多に会わなかった。
    会っても半分以上、自分はtextを眺めていたり、ひたすら受験勉強をしていた。

    他校の受験は、東大を諦め、東京工業大学の学際系コースにした。
    文系だけど理系、のような。

    しかし、これが失敗だった。
    素直に数学専攻にしておけば、割とすんなり行けたような気がする。
    1年後には、後輩たちが東京工業大学の数学専攻に数名進学したことを知る。
    コース選択は、重要だ、、

    メタゲームに負けてしまった。。

    まあ、ミスだけではなかった。

    自校の試験では、トップ3位に入ったらしい。
    分野別に、主席合格が第一種奨学金をとれるという裏ルールらしいのだが、受験翌日にボスから一報が入り、

    “ほぼ間違いない、確実だ”

    と非公式に太鼓判をもらった。

    東京工業大学は見事に不合格だったが、自校の成績は良かった。
    奨学金取れたのも大きい。

    この頃、単発のバイトも少しだけやった。

    某市長選挙の裏方や、街頭を練り歩く要因、学会の事務手伝い、某通信教育の住所メモ(住民基本台帳からの転記)。
    お水系としてはキャバクラの黒服もやった。

    チンピラに、
    “ビール5秒で持ってこいコラァ!”
    とか言われたのは良い思い出。

    通りに出て客引きもやった。なんか今は禁止されてるらしいですが(笑)

    そんなことしてたら就活に忙しかった彼女さんから別れを切り出され、破局したりなんだかいろいろありましたが、ソコソコ順調だった。
    ような気がする。

    *

    大学生活もあっというまに過ぎ去り、卒業式は就職する奴らが羽織袴、スーツをビシっと決めて、成人式ばりにはしゃいでいた。
    自分は卒業するけどすぐに入院(笑)するので特に感慨もなく、写真取りたがる(今となっては疎遠な笑)同期君と写真撮影に興じた。
    当時はまだ写メかなくてみんな使い捨てカメラとかだったかな??

    就職組はひと足先に巣立って行った。
    高校からの友人は、一人は大手保険に入り、札幌勤務、もう一人は都内でフリーターやるとな、、
    同じ大学の進路がここまで違うとは、人生よ~分からんですはい。

    大学院と言っても、学部四年生の延長に近かった。授業はたまーーにしかなく、単位は取るだけなら余裕で、博士課程進学なのか、就職なのかによって教授達の当たり方も如実に違った。
    まあそうだ、博士課程に行くということは、その道のプロ、学問のプロを目指すことになるのだから。

    同期達の中には、他大からの進学組がいた。
    自分の滑り止めにした市立から、女子大から、いろいろと。しかし、マイノリティだったことは間違いなく、残念ながら彼らの学力は大したことなかった。
    このあたりはボスの言う通りだった。

    ただ、良い刺激にはなった。
    持ち上がりのマンネリ感にいい感じの横槍を入れてくれて、女子大出身のヤツはやはりチヤホヤされていた。
    仲良くなっていろいろと話していると、まあ、浮いた話にもなるわけだが、その人経由でお付き合いする事に。

    ※後の嫁さんです。

    ゼミはtextのレベルが五段くらい上がって、洋書(英語)。難解で、1ページ読み進めるのに、1週間かかったりした。
    ほんとに。
    輪番制でなく、人によってtextをかなり弾力的に使い分けていて、他大から来た人と同じゼミにいたのがちょっと温度差あり過ぎるような感じだった。
    しかしボスはそこの所はよくわかっていて、実際に発表を聞いていると、なるほどな、という感じだった。

    程なくして、博士課程の人もゼミに参加したり、他のゼミからもオブザーバーが来たりと、割と賑やかなゼミとなった。

    発表準備もしつつ、お付き合いしている彼女さんにいろいろと相談したり、指導を受けた。これは今でも感謝している。

    大学院も1年生経たないウチに、就職活動シーズンが来てしまった。

    ここまでは、学者志望に振れたり、現実見て落胆したり、いろいろとブレブレだったが、就職活動に邁進した。

    事前に彼女さんから手ほどきを受けていたので、素直に従った。パソコン持っていたので、そこからエントリー。とにかくエントリー。この段階ではプレエントリーなのはわかってはいる、が、頭数は必要なので、とにかくエントリー。

    おそらく200社位はエントリーしたような気がする。

    “どーせ都合とか合わなくて行けない会社ばっかりなんだから、とりあえずエントリーしとけ”

    彼女さんの言葉の真意を知るのは数ヶ月後だった。このときは苦行だった。

    それから、エントリーシートの雛形と、履歴書の作成に取り掛かる。

    当時は(今も?)手書きが必須だった。
    手書きはするものの、雛形を用意するのがセオリーだった。

    就職して

    3月に大学院を修了し、4/1が入社式だった。
    ただし、新人はその前に寮に入り、数か月の缶詰研修になる。しかも、入社式の前から寮に招集されていた。
    地方から来た人は、その後の配属まで心細いかもしれないが、同期を一堂に会し、

    横のつながりをきちんと作っておけよ、

    というのが狙いのようだ。
    まあ一応いろんな研修とか営業実習とかあるわけなんですけど、主題は本当に横のコネクション作りだったように思う。

    缶詰時代

    寮に缶詰と言っても、夜の門限(笑)があるくらいで基本はビジネスホテルと同じだった。ほんとホテルと同等の仕様で、噂によるとバブル時代に作ったもので、ゆくゆくはビジネスホテルに転用するとのこと。

    おなじ建物内には会議室がいくつもあり、グループワークに適していた。同期総合職(当時はそう呼んだ)は200人いただろうか。

    グループワークとかでゲームをやると、個々人の押しの強さだとか主張の激しさなどが垣間見れたのは興味深かった。自分はとても覚めた目で研修に望んでいたのだ。

    日系大手企業、熾烈な出世競争に晒されることはわかりきっていたのだが、そこまで出世に興味はなく、日々の生活できればそれで良いのではないか??
    くらいに斜に構えて研修に望んでいた。

    だいたいの同期は学部卒、自分は院卒、歳が2歳違う。たまに一浪一留とか二留とか大学再入学とかで同い年はいた。年上の人もいて、確か一浪ニ留とか言ってたな、、、

    テストの嵐

    保険会社に入ったのだが、最初のうちの机上研修がことのほか辛いものだった。眠いのです、、
    んで、頻繁にペーパーテストがあった。また、業界共通試験なんてのもあり、95点以上取らないと合格にならないだとか、満点取って当たり前だとか、葉っぱをかけられた。営業研修に出るための必須科目であることは確かだった。

    後日、点数設定は会社独自のもので、7割取れば販売資格は取れると聞く。。
    なんでも、会社ごとに平均点を競っているらしく。
    保険会社は護送船団とか言われていた時代があったそうですが、他社の動向を伺う体質は抜けてないようです。

    社内のペーパーテストは隣の人と答案を交換して採点しあい、9割を下回ると人事の担当から御丁寧にお呼び出しをいただき、今後の勉学についての方針について御高説を賜るというとても効率的な仕組みになっていた。

    我々は賢かった。
    隣の同期君と結託したのだ。
    無言の協定が結ばれ、採点の時に公然と採点ミスをし、9割確保をお互いに握りあった。
    ※復習はきちんとした。これは当然。

    営業へ

    そんな面倒くさい机上研修から開放され、やっと営業実習ということで、二人ペアで特定の地域を営業して周る事に。
    ピンポンして、
    ○○保険です、
    いらん、帰れ、
    また来ます、
    来なくていい!

    のようなやり取りを永遠と続ける感じである。
    95%は門前払いで冷たいのだが、極たまに、ニーズを感じる事があった。
    そんなときはすかさず切り込む。

    細かい設定は覚えてないが、会話が成立することをオープンと言った。そして、既に保険契約を持っていることがほとんどなので(割当てされた地域は富裕層が多かった)、それを見直ししてみませんか?と言った、営業をするわけである。

    これを徹底的にやるため、机上研修のときにはロールプレイと言って、客と営業、両方の立場で寸劇のようなものを延々と繰り返し、身体に叩き込んでいくのである。

    当然、自分は、やる気が無かった。

    しかし、営業実習2週間で、契約を2件獲得した。

    本当にたまたまとしか思えない。

    一人は専業主婦の方で、ママ友の間でがん保険が話題になっていたらしい。3度目位の訪問で家の中に入れていただき、すんなり契約に至った。

    もう一人は、本来、契約謝絶体だった(当時、がん経験者の保険加入は厳しい)。それが、雨の日も風の日もピンポンして顔を出し、時にはどうでも良い世間話をして、情がうつったのだろう。研修でもう来れない、みたいなことも伝えていた。
    研修最終日、定期預金を解約したと言ってきて、一時払いの保険に加入していただいた。

    自分は採用経路がちょっと違うので、基本的に営業として配属されることは無いと聞いていたが、やってみるとなかなか面白い。
    同期の中で、契約取れるからどうかでなんとなくハクがつくのだが、なんとか人並み以上にこなすことができたように思う。

    営業実習のあとは、同期達が悶々とし始める。

    配属先決定

    配属先の情報が漏れてくるからだ。自分はおそらく本社配属だろうと気楽にいたが、地方大学出身の人や関西出身の人が一番騒いでいたような気がする。
    (関西採用の同期は独自のコミュニティを傾城していた)

    そして、配属面談等を経て、各々の思惑を抱えながら、家庭事情やら自分のスキルやらアピールして、配属が自分の思い通りになるようにする。

    邪推でしかないのだが、内定出す時点で配属先はほぼ確定しているように思う。北海道の大学出身者を博多配属にするメリットはどこにもない。
    岸和田配属なら大阪経験者じゃないと駄目とか、名古屋独特の文化を知っている方が良いだとか(←適当に書いてます)いろいろと人が欲しいにしても条件がつくわけなのです。

    実力で内定取ったなんて、思い上がりも良いところで、全ては会社の都合なのだと、後から腑に落ちる。

    少しずつ、情報が出てきた。
    地方配属と、出向者には事前に通知があるようだ。
    出向したいと言っている同期はそれなりにいて、呼び出されるのをハラハラしながら待っていたようだ。

    また、配属の前に、居住地が通知されるというよくわからん順だった。まあ、住所わかれば、配属先は推して知るべしという配慮??なのだろう。

    当時は世田谷に住んでいたが、 

    自宅

    という通知だった。

    配属先決定

    集合研修が終わりになり、最後に卒業式のようなセレモニーがあった。ここで、辞令を受け、配属先を知る事になる。ほんとに賞状もらうみたいなのだが、それを受け取り、社長が

    ○○部勤務を命ずる

    と発する、その瞬間までわからない。

    花形とされているのは資産運用系の部署だったが、五十音順に、たて続けに運用系の配属が通知され、心待ちにしていた同期の士気が一気に下がったのを覚えている。

    自分の番がきた。
    自分の所属先は、予定通り、本社だった。

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    東日本大震災

    2011(H23)年3月11日、
    忘れもしない金曜日。

    思い出すままに、
    書いてみようと思います。

    ※多少生々しい表現がありますので、
    読み進める際はご注意ください。

    その時は決算前
    決算の仕込みをしていた。

    比較的、業務は余裕があったように思う。

    15:46、
    地震発生。

    なんだ地震か。

    と思い、
    特に何もせず、
    業務を続ける。

    む、収まらない。
    これ、やばいやつか?

    揺れは止まらない。

    椅子に座っていても感じる揺れ、
    フロアに響く悲鳴、困惑の声。

    とっさに携帯電話(当時はガラケー)を持ち、
    デスクの下に隠れた。

    まさに、防災訓練さながらの隠れ方だったように思う。

    何分経ったろうか、
    まだ揺れている。

    東京都心にあるビルのフロアは20階近く、
    耐震構造だったはずだが、
    揺れは収まらない。

    デスクは軋み、
    目の前の光景がゆがむ。

    壁際にあるスライド式のロッカーが、
    轟音をたててガンガンと振動している。

    過去の決算書類や資料が、
    バサバサと音を立てて崩れる。

    お構いナシに振動を続けるロッカー、
    人力で止めようとしても、
    抑えられない。

    というか、
    ロッカーどころじゃない。

    まだ揺れている、、、

    何分たったろうか、
    やっと揺れが収まってきた。

    館内放送が入った。

    けど、ほとんど聞き取れなかった。

    たしか、
    「エレベータが動かない」
    ような内容だった気がする。

    地上までは約20階、
    コンビニで非常食を買いたければ、
    階段を降りるしかない。

    揺れがひと段落して、
    ビルの窓から見える皇居をみて絶句した。

    皇居のお堀が、
    波打っている。

    高さは数センチだろうか、
    お堀の形にあった波が綺麗に往復している。

    災害時に不謹慎だが、
    とても美しい波だったように、
    記憶に残っている。

    ボスたちはなにやら他部署と電話をし始めている。
    決算がどうなるのか、
    予定とおりなのか、
    なんらかの特別対応が入るのか、、、

    後日談だが、当日中に、
    予定とおり業務遂行することで、
    概ね全部署とほぼ意思疎通ができていたと聞いた。

    JR、地下鉄、次々とストップ。
    特にJRの運休判断が非常に早かった記憶がある。

    JRユーザーだった自分は、
    早々と帰宅手段を失った。
    当時の住家は千葉のほう、
    徒歩で帰る元気はなく、地下鉄は届かない。
    地下鉄・私鉄も徐々に運休になった。

    道路は帰宅困難者、
    タクシーで埋まっていたという。

    ある人は途中で自転車を購入し、
    自転車で帰宅したと。

    またある人は、
    スニーカーを途中で購入し、
    数時間かけて、
    徒歩で帰宅したという。

    震災当時、
    自分はガラケーだった。

    電話は当然使えない、
    会社からの家電も通じない、
    メールも飛ばない。

    そうこうしてたら、
    「不要な帰宅は控えるように」
    というお達しが出た。

    会社公認で、
    会社で1泊することに。

    当時の雑用係りとして、
    災害時の安否確認があった。
    たまたま、自分はその係りだったので、
    チーム内に声変けをし、
    帰宅したら、
    「安否確認システム」
    に登録するよう呼びかけた。

    ちなみに、
    これに登録したところで、
    その後の命令がなにか伝わるわけではない。

    自宅待機命令は、
    上司等から直接出るらしい。

    まさに、
    「安否」を
    「確認」するためだけの
    「システム」なのだった。

    夕方以降、
    少しずつ、帰宅する人が出てきた。
    遠方で帰宅困難な方は、意外に多く、
    早くも
    「酒盛りを始めようか」
    みたいな話になっていた。

    とある先輩は、
    階段を自力でおり、
    近くのチェーン店で弁当を20個ほど仕入れ、
    また階段を登ってきたという。

    その弁当は、
    フロアにいる希望者に振舞われた。

    幸い、自分にも配られたので、
    ありがたくいただいた。

    チェーン店と馬鹿にしていたが、
    このときの味は、
    格別なものだった。

    夜が近づいてきた。
    「買出し行こうか?」
    と誰かが言い出しようだ、
    自分も追随した。

    20階近い階段、
    ひたすら降りる。

    どうやら、エレベータは少しずつ復旧してきているらしい。

    *

    街のコンビニへ繰り出す。

    店によっては、
    営業時間にもかかわらず、
    施錠されていた。

    中を見ると、
    すでにめぼしい商品が無く、
    売り切れた後だった。

    やむなく、
    他の店へ。

    ソフトドリンクは、
    見事に売り切れ。

    お酒と乾きモノ中心の食事を少しだけ。
    一緒にいたマネジャーが太っ腹だったので、
    全額奢ってくれた。

    *

    オフィスに戻るとき、
    漸く、エレベータが復旧していた。

    これで上がれる!
    と思ったのも束の間、
    エレベータの列は長かった。

    1台だけ稼動していたのだろう。

    フロアに戻り、
    テーブルでわいわいとやりはじめた。

    地震があったことは、
    半ば忘れたように、
    みんなほろ酔いで楽しい気分だった。

    年末の納会以外で、
    オフィスで飲むことなんてご法度、
    それが逆に良かったのかもしれない。

    オフィスで一晩明かした朝、
    少しずつ帰宅する人が増えてきた。

    自分も連絡を取りつつ、なんとか帰宅。

    *

    長い一日だった

    帰宅して、
    東北地方の津波被害、
    原発事故を知った。

    見てられなかったのと、
    疲労がたまっていたので、
    程なくして眠りについた。

    長い1日がやっと終わった。

    baron
    baron
    それではこのへんで。
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    四季のブログ/丹志井商店

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